仏教の智慧
仏教においては、「ちえ」のことを「智慧」と書きます。
一般的に「ちえ」と聞くと「知恵」を思い浮かべるのではないかと思いますが、仏教では難しい漢字で書きます。
文字が違うということはすなわち同音異義語ということになるのですが、その違いは一体なんなのでしょうか?
知恵とは
知恵は人間が生まれ、成長するにつれて物事について学んだり、考えたり判断したりすることや、アイデアを出したりすることを指します。なので知恵があることはすなわち頭の良いことと同義のようにとられることも多いかと思います。
智慧とは
一方で難しい漢字の「智慧」は、この世の真理や真実はなんなのかを考えることを指します。
人間の幸せや欲とはなんであろうかと考え、真理を見抜こうとする考えを智慧と呼ぶのです。
智慧は仏教の終着点に通じるもの
仏教とは、「この世界の様々な苦しみから解放され、安らかに楽しく生きるためにはどうすれば良いのか」を考え、教えているものです。苦しみから解放されることが仏教の目的であり、そのために必要なものが「智慧」と言えるでしょう。
どのように生きれば良いのかわからないこの世界において、智慧は自分自身の幸せの本質を見抜こうとする動きであり、それは自分自身が進むべき道を指し示してくれるような存在になると言えます。
どう生きることが幸せに繋がるのかを考えることをしなければ、人はその一生を幸せの意味を知らずに終えることになるかもしれません。
お釈迦様の例え
お釈迦様は、人生の苦しみから解放されることを川を渡ることに例えました。
片方は苦しみばかりの岸。もう片方は苦しみのない安らかな岸。
智慧のない私たちは苦しみばかりの岸におり、川を挟んだ向こう聞(彼岸)を渡ることが仏教の終着点なのであると教えます。そして、その彼岸を渡るための道具はなく、自分の力で渡りきるものだとも教えます。
智慧を得ることは、自分自身の力で川を渡る方法に出会い、自力で渡りきることです。仏教において知恵と智慧は大きな違いがあるのです。
智慧を得る、それはすなわち
智慧を得ることは、自分自身の幸せや利益に執着することにとらわれないことです。煩悩という、自分中心の幸せや利益に偏った考えから離れること。
そういう煩悩にとらわれないことはすなわち自分自身の意見や考えにとらわれず、他との争いをなくし、逆に共感や暖かい感情が現れることにつながるとお釈迦様は説いておられます。智慧を得ることはすなわち他者への慈悲を生むことにつながります。
人間は生きていく中で様々な煩悩と出会い、苦しみます。しかしながら心の何処かに智慧を得るということを収めておくことで、少しでも「とらわれない」本質的な幸せや豊かさに出会えることを願います。
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