信行寺の歴史

開基了然は、後奈良天皇の天文十二年宗祖親鸞聖人の浄土念仏に帰依し、聖人の著御本典の中より教證を山号とし、信行を寺号と定め、武雄小楠の地に教證山信行寺を建立された。(平成二十六年より、四百七十一年前)

然るに慶長五年豊臣秀吉没後天下の実権を掌握したる徳川家康の命は武雄藩にも浸透し、政治力を一致させる為、同朋教団を都市に集め、以て文化産業経済の一翼にと藩主よりの懇望に依り、第三世漸的は小楠の地を離れて湯町の地に移転をなしたり。(四百十五年前)

第四世宗吟以降、第八代慈観に至るまで親鸞教の宣布に尽力、寺に残れる過去帳には菅牟田村・弓野村・黒牟田村・庭木村・上幸平山・大樽山・大日村・上野村・赤絵町・筒江山・・等住持の祖先の面影を偲ぶに充分なもの残りおれり。

次で第九代僧柔の時、湯町大火あり。その大火の中に御本尊様を提供し無事に御退避申し上げた僧柔再び寺に帰り仏具等避難の途時、遂に火業の為に殉教せらるや未だ幼少なりし默乗決然として法統を継承、門徒と共に同甘同苦の中に信行寺復興に努力、当時は寺有田地外有地在りて有力なる門徒の強力と共に五間四面の本基を建立せり。

第十世默乗は本堂復興も休む暇もなく、大悲伝普の報謝行の伝道に行脚を続け、為に同信の友陸続として寺に参詣し、如来の慈光に接するや本堂での布教も法要も先分出来兼ねるような状態になりたるに依り、默乗は門徒と協議の上、本堂拡張なすべく木材蓄積を始めるや不幸病魔の襲う所となり、四方淨刹へ還帰せられ、第十一代実乗継承し拡張工事なさんとするや時に廃仏毀釈の風雲沛然として巻き起こり、蓄積したる用材も一部を残し武雄温泉の建築材として売却するなど・・・。

実乗没・・第十二世悦雲継職するや更に宗祖蓮師の足跡を偲び捨身布施の報恩道を精進し、布教は多くの帰依者を得てその往時の若き管牟田の春法要・御所の御正忌・降誕会等の法縁にわらじがけで参り法を説き、多くの改宗者を出し、武内西梅野の地にも足を延ばし、又同信の友多く出て東は菅牟田村より西は小田志村まで、法の慈雨は変わりなく降り続き信行寺の基礎は不動となれり。

新しい息吹は封建社会の悪癖を流し、新しい社会建設の鐘を打ちならすや、慶長五年藩主の懇請に依り武雄に集まりたる本派本願寺の寺々は地方門徒の要請のままに移転を開始するや、信行寺も若木の門徒より移転を熱望されしも、悦雲生まれ故郷の愛執はたち難く尚、武雄に留まり居たり。然るに武雄より円楽寺・西教寺・妙輪寺・常念寺・徳圓寺の各寺は移転するや、第十三代淳心は止むに止まれず岳父を説得し遂に明治二十八年武雄を離れ、若木現在地に門徒に迎えられて移転を完了させた。

同再建に第十三代淳心は相続千人講を始め着々その成果を収めつつありし折、昭和九年西方淨刹の人となられるや、第十四世暁雲亡父の意思を継承、これが実現への道を進め居る時、おりしも支那事変大東亜の戦熾烈となり実現も一頓挫を来たし、戦いは敗戦となり胃の如くならずに居り足るも講和の身結び平和への希望も大きく育成され、昭和二十九年四月に基山因通寺より道龍を迎へ、一段と固く本堂再建の志を固め祖先の遺志を顕彰し昭和三十六年四月二十九日時おりし宗祖親鸞聖人七百回忌大遠忌法要を記念して門徒渇望の本堂の落慶入仏法要を厳修せらる。尚昭和四十二年時代の要請により第一納骨堂を建立し第十四代暁雲・第十五代道龍両氏の努力により益々信仏発展途上にあり。

若木百年史より

このページの上へ